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『週刊がん もっといい日』編集部(株式会社日本医療情報出版)
TEL.03-5688-7816
FAX.03-5688-7803

週刊がん もっといい日
2006年Vol.13
6月16日更新


6月8日更新内容 全記事はこちら

「決して諦めずに全力で生き抜きましょう」
連載『生死をさまよい生還した“平成の一休さん”の闘病記』が
始まっています!


「決して諦めず、心を強く持って、全力で生き抜きましょう」−食道がんと宣告されてから死の淵をさまよい歩き、必ず生き延びるという強い信念を持ち続けて11年が経過した今、
“平成の一休さん”は、講演活動と全国から寄せられる相談に応じる毎日です。
 連載は、がんと宣告されてから七転八倒の苦しみを体験し、たくさんの人たちに支えられて生きた“平成の一休さん”の物語です。
「“社会復帰を果たす”という強い決意で病いとの闘いに挑んでください。“ウサギと亀のかけっこ”のお話は有名ですね、亀は“山一点を目標”にして、コツコツと脇目もふらず走り続けて山頂に辿りつきました、ウサギは、亀を追い越しては怠けて昼寝、その間にまた亀に追い抜かれる、ウサギの敗戦は亀の動きばかりに気をとられ目標がどこに有るのかを見失って敗れたのでしたよね。
あなたの目標は社会復帰です、“周囲の雑音には耳を傾けず”ただ一点、病気のことだけ考えることに“集中”してください」
“平成の一休さん”からのメッセージです。
それでは、今日よりも「もっといい日」を目指して・・・。


☆☆☆「週刊がん もっといい日」VOL.13☆☆☆


私のがん闘病記
今回ご紹介するのは、予後の悪い咽頭がんから肺に転移した父親と、父親をサポートした子の闘病記。二人で、がんと闘い、偶然知った「免疫細胞療法」により、元気を取り戻した平林照雄さん(73歳)と平林茂さん(47歳)のケースです。では、どのような闘病生活を送られたのでしょうか。


平林照雄さん(左)とお母さん(右)、中央が息子の平林茂さん

東京都港区在住 平林 照雄さ(73歳)のケース

病歴:1998年/咽頭がん(下咽頭部の扁平上皮がん)初期、肺の転移がん
治療:放射線療法とレーザー治療後、声帯と食道の一部を切除、後に「免疫細胞療法」を受ける。
「患者の集い モミの木」(TEL03-6821-9961・http://www.momi-noki.com/)の会員。

「予後の悪い咽頭がんと、肺への転移がんに倒れた父が
すっかり元気を取り戻した免疫細胞療法の可能性に
エールを送っている毎日・・・」



■不安がぬぐえなかった8年前の初病当時

 私(平林茂47歳)が、父、平林照雄の咽頭がん治療のために奔走したのは、8年前のこと。もうそんな年月が経ったのかと、当時を感慨深く思い出しています。あの日、父の発病を聞いた私は、早期発見だとはいえ咽頭がんの予後の悪さを知っていたため、不安がぬぐえませんでした。
 とにかく一刻も早く治すため、浸潤部は放射線治療で消失、さらにレーザーメスを使って原発巣の腫瘍を焼き取りました。しかし、ひと安心している間もなく、今度はすぐ近くに新しい腫瘍ができてしまいました。
 そこで主治医に紹介された慶応大学病院に転院。声帯と食道の一部を切除し、小腸の一部を移植してつなげる「遊離空腸移植手術」を受けたのです。
 12時間にも及ぶ手術に、高齢の父は耐えてくれました。糖尿病の持病も持っていたのに経過は良好で、家族皆ホっと胸をなで下ろしたのです。声と引き替えに助かった父は、匂いを嗅ぐ能力や、聴力も衰えるという副作用を抱えることになりましたが、それでも命には代えられないという思いでした。

■偶然知った「免疫細胞療法」で肺の転移巣は消失

 がんは、一時改善しても安心できません。最も怖いのが転移ですから、何とか予防できないかと私の心には常にそのことが引っかかっていました。そんなとき、偶然知ったのが「免疫細胞療法」というものだったのです。
 これは、東京大学医科学研究所の前教授が行っている、がんの最先端治療でした。この方法は、まず患者さんの血液を採取し、中から取りだしたリンパ球に刺激を与えて、活性化及び増殖させ、それをまた患者さんの体内に戻すというものです。2週間ごとに6回繰り返して1クールとなります。
 ただし、このクリニックは保険医療機関ではないため、治療費は全額負担。1回当たり20万円を6回繰り返すのですから、経済的負担が大きい。それでも、「転移防止のために受けてみないか」と説得していた矢先、定期検診で父の肺への転移が見つかったのでした。もう迷う時間はありません。
 東京・世田谷の瀬田クリニック、ここから私たちの第二の闘いが始まったのです。1クールの治療を受けている間、私は両親を連れて海外旅行にも行きました。「免疫細胞療法」の効能なのか、がんを患っているはずの父が一番元気だったのは、今でも笑えるエピソードです。
やがて12月。胸部CT検査の結果、シロと出ました。肺の転移巣は見事に消失していました。父は生還できたのです。
その後、予防のために約1年治療を続けました。現在、すっかり元気になった父を見て、がん治療の新しい可能性にエールを送っている毎日です。
                     ◇
<編集部から>決してあきらめずに、頑張りとおした平林さん親子。がんの治療時、再発・転移の不安はぬぐいきれません。そんなときに、偶然知った「免疫細胞療法」で、肺がんの転移巣が消失した平林照雄さん。元気になられた父親の姿を、笑顔でごらんになられている茂さんが、まぶたに浮かんできます。



編集部がお勧めのホームページ

治療の体験記が病名から探せる「闘病記ライブラリー」

http://toubyoki.info/

治療の体験記が病名別で検索できるブックサイトが『闘病記ライブラリー』。国立情報学研究所の高野明彦教授が主宰するNPO法人の連想出版が明らかにしたもので、700冊の書が12の仮想書架に収納されています。
書架には、がん、心、脳、神経、血液。骨・筋肉、皮膚、小児、女性などが整理されていますので、必要な闘病記がすぐに検索でき閲覧できるのも、『闘病記ライブラリー』の特徴。 




連載

『Revital(蘇り)―生死をさまよい生還した
“平成の一休さん”闘病記』

第2回
「苦痛は眠る時間さえ与えてくれず睡眠不足で
疲れが極限に達した日々」


がんにかかったとき、多くの人が不安な心にさいなまれます。「主治医は大丈夫といっていただいたが、本当に治るのだろうか?」「転移はしないのだろうか?」「治療がうまくいっても、2〜3年もしたてから、再発したらどうなるのだろうか?」等々。不安な気持ちは、ものすごく理解できますが、決して諦めてはいけません。
万に一つも可能性を見出す努力も必要ですし、同じ病いに冒された患者さんの体験に耳を傾けるのも、解決法の一つになるでしょう。大阪在住の“平成の一休さん”こと、西宮春雄さんは、想像を絶するほどの苦しみと痛みを克服しました。
それでは、前回に引き続き、“平成の一休さん”の闘病記をご紹介します。

■食道はすべて摘出され胃は食道を
整形するために三分の二が切除された

平成7年3月14日。8時間の手術に耐えた私を待っていたのは、「身体中が痛い」「吐き気」「下痢」「38度台の高熱」「呼吸困難」「頭痛」「めまい」「身動きできない状態が続く」等々、想像を絶するほどの苦しみでした。
 看護師さんは、私が苦しむ声を聴くたびに、その都度院内を走り回り、先生は症状に合わせ薬を投与されたそうですが、効果がなかったのです。私は、「お医者さまが、とっかえひっかえ薬を投与してくださったのだから、効果がないのは仕方がない」と納得しました。


食道がんを切り取った手術後の写真。
大きさは20cm以上・・・(西宮さん提供)

私の食道は、すべて摘出され、胃は食道を整形するために三分の二が切除され、胸骨も何本か切り取られ、整形された小さな胃は胸骨前に・・・。胸は4か所が、“塹壕”のように胸肉を掘り起こされていました。
食道入口部分の切り後から、シューッと音をたてて何かが噴出し、また体の内も外も神経系統が斬られているせいか、気持ちと体の動きが一致しませんでした。
さらに数本のクダが身体に差し込まれ、床下で何やら回収しているようでした。ふと上を見たら、点滴棒に十数本の点滴液がセットされ、点適袋に「頑張れ」「ファイト」「もう少しで楽になるわよ」「がまん」等々と書いてあり、私は苦痛と闘いながら、「病院のスタッフの皆さんが、懸命に私を支えてくれている」と有り難く思った次第です。
しかし私の苦痛は、24時間休む暇のないほど襲い、眠ることすらできませんでした。時々睡魔が私を襲ってくるのですが、苦痛は私に眠る時間さえ与えてくれず、睡眠不足で疲れが極限に達していました。
それでも私は、「痛いものは痛い、苦しいものは苦しい」と、メッセージ(信号)を自分の大脳に送り続けたことを、改めて思い出します。 

■治療は終わり何もないと思っていた
矢先の不意打ちに「えっ!まだあるの」

さて3週間を過ぎた頃でしょうか。今度は次々と襲ってくる激しい痛みにさいなまれる日々が続きましたが、そのうち、「傷は痛むが、心は痛まない」といったような境地が感じられるようになってきたのです。
傷の痛みは、抑えようがありませんでしたが、精神的には「苦しい」「辛い」などという心の負担(ストレス)は、徐々に薄れていきました。
手術後4週目。やっと大部屋に戻れる許可がでました。普通は、数日で大部屋に戻ってくるのですが、私がいつまで経っても戻ってこないので、部屋の患者さんたちは、心配をしていてくれたそうです。
大部屋に戻った日。「よかったね」部屋の皆さんが、拍手で迎えてくれたことで、私の目に大粒の涙が溢れてきました。私は、とても嬉しかった。身体の状態は、ヨレヨレ、ヘロヘロ、腰は曲がったままでしたが、部屋には戻れたし、何とか立つことができ、少し歩けるようになっていました。
平成7年の5月に入ったある日、「これが最後の治療ですから頑張りましょうね」と看護師から言われました。私は、思わずドキッとしました。もう何もないと思っていた矢先の不意打ちに、「えっ!まだあるの」強い口調で言いました。
「はい、最後の大仕上げがあるんです。実は、食道を全摘出した際に、入口の根元から切り取ってあるので、食道の入口が8mmと狭いために、入口の“狭窄”が一番心配されています。だから食道の入口を広げる処置をします」
さっそく内視鏡科へ行きました。
「これからバルーンを入れて、膨らませる作業を何回か繰り返します。チョッと苦しいでしょうが我慢してくださいね」
最初は、食道の入口が狭いので、内視鏡が思うように中に入らなかったのですが、徐々に奥へと進みバルーンが膨らみはじめました。1分ほど経過したときに、一気に硬いものが喉元を広げはじめ、「痛い」「苦しい」「呼吸ができない」状態が8分ほど続き、やがて作業が終了しました。
確かに、以前よりも食道が広がっていましたが、「後2〜3回はやる必要がある」とのことでした。その後、何度もこの治療を受けた結果、6年後の今、まったく狭窄の兆候はありません
「あのとき、とても苦しかったが耐えて良かった」と、しみじみと思いだします。後でわかったことですが、あのときに広げたバルーンの大きさは約3倍だったそうです。道理で苦しかったはずです。

■1週間24時間連続の点滴の
副作用の「吐き気」に苦しむ

「ごめんなさい、もう1回辛い治療が残っていました」
担当の看護師さんが、申しわけなさそうな表情で部屋に駆け込んできました。今まで積もりつもった治療の結果、血液すべてをきれいにする必要があるとのことでした。
「いつから、どのような治療をするのですか」
「明日から1週間24時間連続で点滴を落とします。でも吐き気という副作用が、点滴をやっている間は続きます。本当に辛いと思いますが、もうひと頑張り耐えてください。いいですか、どんどん吐きますので、ティシュをたくさん用意して置いてくださいね」
点滴が始まり、すぐにムカムカと吐き気が始まりました、結局、吐き気は1週間続き、吐きっぱなしの日々が続きました。使用したティッシュは、1日5箱×7日=35箱となったでしょう。
地獄のような治療が終わり、「やれやれやっと済んだか」と、一息つく間もなく、「歩行
訓練をしてくださいね。」
歩く目標を自分で決めた最初は、大部屋のある病棟を2〜3周。最終的には、100周すること。数日後には50周、そして10数日後には100周回れるようになり、食事も5分粥を60%位まで食べられるようになっていました。
退院は、その年の5月13日。「めでたし、めでたし」のはずでしたが、この日を境に、
13回以上の入退院を繰り返す生活が始まったのです。(西宮春雄記)

“平成の一休さん”のE-mail :ikkyuu@sky.biglobe.ne.jp
“平成の一休さん”のホームページ:http://www.ikkyuu.net/



がん対策基本法案の全文を紹介します

与党と民主党が合意して一本化した「がん対策基本法案」が、6月16日に参議院を通過し、今国会で成立しました。どのような内容なのでしょうか。ここをクリックすると「がん対策基本法案」の全文を見ることができます。

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