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月刊がん もっといい日Web版

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『週刊がん もっといい日』編集部(株式会社日本医療情報出版)
TEL.03-5688-7816
FAX.03-5688-7803


週刊がん もっといい日
2006年Vol.18
7月21日更新


7月14日更新内容 全記事はこちら
本欄で、いつか、前立腺がんのために1年間入院し、社会復帰した少年野球チームのコーチのことを紹介しました。彼は、現在、会社勤めも再開し、コーチとしても復帰しています。
その彼が、つい最近、「たまには一杯のみに行こう」と若いコーチたちを誘いました。コーチたちは、一瞬『飲んで大丈夫なのかな』と聞き返そうとしたとたん、「心配するなよ。お医者さんからOKがでたんだから・・・」。
その日、若いコーチたちは復帰したてのコーチの体を心配しつつ、夜遅くまで飲んだそうです。翌日、公式試合でしたが、彼は久しぶりにユニフォームを着て、笑顔でグランドに現れたことはいうまでもありません。
では、今日よりもさらに「もっといい日」でありますように。

☆☆☆「週刊がん もっといい日」VOL.18☆☆☆


株式会社Jハーブ代表取締役社長
亀井眞樹さん

がんに挑む企業

「がんや難病との闘いのなかで、
患者さんの生き方、家族との絆、
そして光り輝く命の尊さを追求したい」

患者さんと家族が綴る『いのち輝かそう大賞』を
スタートさせた統合医療を実践する医師でもある
株式会社Jハーブ代表取締役社長の亀井眞樹さん


「いのち輝かそう」をスローガンに掲げた、がんや難病の患者さんと家族の体験記を募る活動がスタートしました。患者さんの生き方、それを支える家族・・・がんや難病との闘いのなかで、光り輝く命の尊さを訴求するのが目的ですが、発案者は、代々木公園診療所で臨床医として統合医療を実践するかたわら、今年3月からJハーブの代表取締役社長として活躍中の亀井眞樹さん(45歳)。では、どのようなきっかけで取り組んだのでしょうか。

■患者さんと家族に向けて体験記を募ったきっかけ

―― 「あなたの言葉で勇気づけられた、いのち輝かせる人が、きっといます。がんや難病にまつわる、ご自身またはご家族の体験談をお寄せください」と呼びかけた、患者さんや家族の方々が綴る体験記を募る「いのち輝かそう大賞」ですが、どのようなきっかけがあったのでしょうか。
 亀井 確か8年ほど前だったと思いますが、『ニューイングランドジャーナルメディスン』誌に、乳がん患者さんの追跡調査に関する論文が掲載されました。乳がんのために乳房をなくすという女性にとっては辛い出来事に対して、ご主人、家族、同じ病の人たちと語り合いコミュニケーションをとったグループは、そうではないグループに比べて2倍、10年生存率が高かったという内容でした。ではわが国はどうだろうかと考えた場合、こうした努力はしているけれども、なかなか大きなうねりにならない。それどころか昨今は、親が子を殺し、子が親を殺すという痛ましい事件が続出しています。
 このような事件が発生するなか、命の尊さをすべての国民に伝えたい。とくに、がんとの闘いのなかで、患者さんご自身の生き方、患者さんを支える家族の考え方、命のともし火が消えかかっている患者さんから学ぶもの、もちろんがんを克服できた方に学ぶもの等々、わたしたちには今、そういった人間性から学ぶものが多いはずです。病が、がんであろうとなかろうと、その患者さんにとって、過ぎゆく一日一日は、とても貴重な日々なのです。
 現場で行われている、たくさんの方々の命を輝かせる出来事は、時折、2時間スペシャルという形のドラマとなって、私たちのもとに紹介されますが、大切なことは、社会的な大きなうねりとして、人々の心が豊かにならないといけないと思います。
 こうした諸々のことがあって、いろいろな方にご協力いただきましたが、私自身が言いだしっぺですから、今回は当社が主催しました。体験記を募るイベントは飛び立ちましたが、ベルト着用のサインが消えるまでが私の仕事。2回目からは実行委員会を設立していただくなど、回を重ねられていくことを願っています。
 人は、一生懸命に生きています。なかには光輝きながら亡くなった方もいるでしょう。そうした方々の思い出が、いつまでも人々の心に残せるよう、そして私たちの命をつなぐという生き方を選び、毎年多くの人々にお伝えしたいですね。まだスタートしたばかりですが、やがて社会のうねりのなかで、子供たちにも自分のお母さんやお父さん、おじいさんやおばあさんが、どのように病と闘って生きたか。人が生きる素晴らしさ、命の尊さを考えてもらいたい。今回の催しが、すべての人々の心を照らすようになってくれれば幸いです。

■不安に怯える患者さんに現代医学だけでなく
最善の方法を提供することが大切

―― ところで東大医学部医学科で神経内科学を専攻なさって、大学院在学中だった1992年に、東京・渋谷区に代々木公園診療所を開設され、統合医療を実践されてきたそうですが、近年では、がんの三大療法を主軸として、免疫療法、漢方医学や中国医学、またサプリメントなど、さまざまな方法を取り入れる医療機関が増えてきました。それだけ患者さんの選択肢が増えたことになりますが、統合医療については、どのように受け止めておられますか。
 亀井 統合医療については、早くから目指していたというよりも、私のもともとのベースが、医師である前に太極拳家であった(全国で一位となった)こと、それに私が東大医学部の3年生のときに、東大病院で母が子宮頸がんのために亡くなったことも関係しています。
母の死因は、臨床病理カンファレンスの場において、世界で7例目であることが判明しました。どのような死に方をしたのか、またどのような治療方法があるのかなど母の死について討論したのが、私の人生で初めての臨床講義だったのです。つまり私の原点は、太極拳とがん患者の家族であったということです。
医療には、これでなければならないというものはありません。自分の目の前、例えば2006年7月17日の時点で、治らないかもしれない病気で不安に怯え苦しんでおられる方がいらっしゃれば、その方のために、ありとあらゆる治療法を提示することが第一です。それが統合医療なのです。
 統合医療とは、決して現代医学に取って替わるものではなく、あくまでも現代医学を主軸としながら漢方医学や中医学、そのほか患者さんにとって最善の方法を提供することです。その後は、私、いつもお伝えしているのですが、医療現場では、常に患者さんの生命にかかわるリスク管理を必要としていること。つまり医療事故などの問題もあり、科学的根拠やエビデンスが乏しい、しかも歴史的な検証について希薄なものを、医療の現場に取り入れていく場合、さらにリスク管理が伴ってくるのは当然なことでしょう。
ですから、われわれからは、患者さんに対して、さまざまな情報の公開、そして患者さん側からの協力も不可欠なのです。そしてもう一つ重要なのが、コスト管理です。

■統合医療を実践する場合、
「経済的費用」「不安費用」「時間費用」「機会費用」
を患者さんに説明することが不可欠

 -―― 患者さんにとっては、医療を受ける場合、経済というコスト面も考えなければなりませんが・・・
 亀井 コスト管理は、経済面だけではありません。私は、コスト管理には、「経済的費用」のほかに「不安費用」「時間費用」「機会費用」の三つのコストを意識しなければならないと考えています。まずは「不安費用」ですが、自分の病に不安を抱えているときに、医師から現代医学とともに、漢方医学や中国医学、それ以外の療法を示唆されると「希望」が沸いてくる反面、「不安」も生じてきます。「これが効く」と言われ希望が生まれても、よくよく話を聞くと、科学的根拠が今一つ乏しかったりして、逆に不安が頭をもたげてきます。
だからこそ医師と患者さんとの話し合い、医師から患者さんに対して十分なインフォームドコンセント、つまりコミュニケーションは欠かせません。医師は、こうしたことに敏感でなければいけません。でなければ、不必要に不安を与えるだけです。患者さんが、後になって一段と不安が甦ってくることもありえます。統合医療は、こうした点を、おろそかにすることはできません。
 次に「時間費用」ですが、とくに相手が、がん患者さんの場合、私たち医師の予想はかなりのものですが、余命6か月、1年間、5年生存率が2%であるとか伝えることによって、一つだけハッキリしていることは、その方の残された生存期間というものが、ある程度クッキリとでてきてしまうことです。
例えば60歳の人が、後20年、7300日生きるといわれてもピンときませんが、がん患者さんの場合、余命という言葉で時間を指定されてしまうことになります。がんは、長い人生のなかで、ふって沸いたように罹患します。そして運命に翻弄されるがごとくに、180日目はあるが、182日目の朝はやってこない確率が高いといわれたことで、初めて自分自身の現実を受け止めるようになります。 
そのようなときに、現代医療以外の手段を、現代医療とともに受けなさいといわれて受けた場合、果たしてどれだけの時間を要するのかは、とても大切なことです。
また、がんの専門医だからと言って、安心ということではありません。医師というライセンスをもっているからと言って、時間費用を考えているとは限らないからです。そして目の前の患者さんに対して、医師が残された時間を見積もって伝えた場合、患者さんに残された日々を、これからどうアレンジしたらいいか適切にアドバイスすべきなのですが、残念ながら、こうした考えが頭のなかに入っていない医師もおられます。
ところが統合医療の立場に立ったとき、Aという代替医療的な手法を導入しながら、Bも行おうとして無理があるとなった場合、AかBかを判断するためには、残された時間内で決めなければなりません。Aという手段の効果を、どうのように見積もり、どの時点で評価していくかが、より正確に求められるようになってきているのです。
人は,亡くなるまで待っていれば良いというものではなく、その都度、1日1日の人生のなかで、喜び、心がまえといった、さまざまな事柄がせめぎ合って生きています。1時間当たりの、がん患者さんが精力を注ぎ込む費用は、通常、7000日〜8000日という時間のある人に比べたら非常に高い。
 現代医学以外のワク組みを広げることによって、新たな問題点が浮上し、そこに科学の手法を持ち込むことで、現代医学だけで進めるのではなく、さらにもう一歩、より良い状態に導くことができる仕組みを構築していくことができるです。
もう一つの「機会費用」は、本来は経済用語ですが、残り時間が限られていて経済的負担も限られている場合、A・B・C・D・Eの手段をいっしょに行うことができず、A・B・Cを選択すれば、残るD・Eは諦めなければならなくなります。あることに出費した場合、もしそのことに費用を使わなかったならば、別なことにその費用を利用することもできたわけです。
例えば、すい臓がんの人で、手術することがかなり難しく、残された時間に限りがある場合、抗がん剤か放射線かどちらかの使用を、ある時点で決めなければならない場合、機会費用が発生してきます。とくに統合医療であれば、こういった概念を医師がしっかりともち、鋭敏に意識しなければ患者さんのためにはなりません。ですから統合医療を実践する場合には、「経済的費用」「不安費用」「時間費用」「機会費用」について、患者さんにその旨を公開し、十分に理解していただかなければならないのです。

■病気が居づらい体づくりをお手伝いしたい

  -―― ところで代々木公園診療所で臨床医として患者さんを診療する一方、今年3月からツムラ漢方で知られる株式会社ツムラから、健康食品関連のビジネスを譲渡され、ご自身が代表取締役社長として陣頭指揮にあたられているJハーブですが、いったいどのような企業なのでしょうか。
 亀井 Jハーブは、健康生活を科学する企業で、いかに病気にならないようにするか。そのためには、病気が居づらい体、例え病気になりかけても病気がいなくなってしまうような体づくりのお手伝いをする企業です。
 例えば、がん患者さんの場合、体に巣食っている悪性腫瘍を除けば、ほとんど健康状態です。つまり健康である部分に働きかけて悪性腫瘍が居づらい体に
なっていくーこれが基本コンセプトです。そのために私たちが提唱しているのが、「平素の体温が高めの方が良い」ことをアピールし、体温を上げる伝統的な方法をアドバイスしています。
健康情報部、健康食品部、健康文化事業部の三つを柱としており、単なる健康食品というモノを販売して、何かをやろうなどとは毛頭考えていません。健康食品といえば、きちんとしたデータが要求されるようになってきました。なかにはデータを集積しなければならない領域もあります。かといって、すぐに臨床試験をお願いすれば良いというわけではありません。歴史的に2000年以上も使用されてきた経緯があって、そのことの地道な掘り起こしとか、今までに私自身も含めて臨床医が使用していて、どのような傾向があるのかーまずは臨床治験を行うモデルづくりの部分に、かなりの精力を注がなければなりません。 
抗がん剤には、得意とする悪性腫瘍があるわけですが、すべてのがんに効果があるわけではありません。その点、健康食品の場合は、その素材にどのような成分が入っているか分からない部分がありますし、現代医学が得意としてきた手法になじまない部分もありますから、十分に注意して進めなければならないのです。
これからは、統合医療にかかわるさまざまな情報を発信しますが、製品については、さきほどから申し上げてきた管理リスクと四つの費用を踏まえた新しい製品を、デビューさせたいと思い開発を進めています。
<編集部から>
中国医学や漢方医学などの講演会の講師として、ひっぱりだこの亀井さん。代々木公園診療所では統合医療を取り入れた診療を行う一方、企業の代表取締役の社長として活躍しています。エネルギッシュな顔つきと笑顔、そして人を引き付ける会話に、つい時間の経つのも忘れるほどでした。
さて亀井さんが言いだしっぺの『いのち輝かそう大賞』。その作品は、一冊の書籍として、またホームページでも紹介されることになっています。募集の詳細は、URL(http://j-herb.jp)でどうぞ。



連載

『Revital(蘇り)―生死をさまよい生還した
“平成の一休さん”闘病記』

第7回 「運命の出会い、感動の出会い、そして別れ」

■息子を失った母親の悲しみと婚約者の別れの言葉 

出会い。一人の人との出会いが、やがてたくさんの人たちとの出会いにつながります。患者となってからの私は、お医者さま、看護師さん、薬剤師さん、栄養士さん、ヘルパーさん、入院先の同室の患者さん等々、たくさんの方たちとの素晴らしい出会いがありました。
2002年5月のある日、がんと闘う私を紹介した記事が朝日新聞の朝刊(全国紙)に大きく報道されました。もの凄い反響があり、「西宮さんにお会いしたい」と朝日新聞東京本社医療科学部へ、たくさんのお手紙が届き、担当デスク経由で私のところへ回送されてきました。
 たくさんのお手紙のなかから2通を紹介しましょう。最初は、千葉県船橋市在住のお母さんからのお便りです。
「息子(当時37歳)が、食道がんで国立病院へ入院したが、先生の説明を受けても納得できないので、お会いしたい」
そう書かれていました。私は、さっそく車に飛び乗り病院へ直行しました。面会できる状態ではありませんでしたが、部屋のなかの様子ははっきり見えました。ベッドの側で、息子さんの婚約者が付き添っていました。
お母さんの話では、主治医や担当看護師さんから、「モルヒネだけしか投与しておらず手遅れの状態」であることを告げられていたそうです。私は、窓越しに彼の様子をみて、「これでは間に合わない」と感じたので、お母さんに、「息子さんは緩和段階です」とその旨を伝えました。
息子さんはサッカーが大好きで、2002年5月31日からのFIFAサッカー日韓大会を楽しみにしていたそうです。彼は息を引き取るまで、「サッカーが見たい、サッカーが見たい」と言い残してもがき苦しみながら、、37歳でこの世を去ったのです。余りにも若すぎた死でした。
 葬儀に参列した息子さんの婚約者は、弔辞で「生まれ変わっても、また一緒になろうね」と語りかける別れの言葉に、会場の参列者はもらい泣き。私もそのことを伝え聞き、胸に熱いものが込み上げてきました。

■ 父親、娘、孫の家族愛を見る

「父が食道がんで入院中だが、主治医の説明に納得いかない。ぜひ相談にのって欲しい」
2002年6月の初旬。朝日新聞で紹介された私の闘病記を見て、患者さんの娘さんからメールが届きました。静岡県清水市(現:静岡市)のNさんです。  
私は、即新幹線で静岡駅へ向かいました。駅では娘さんが待っていて、そのまま病院へ直行し、お父さんと対面しました。
「あっ・・つ」と私は驚いたのです。モルヒネを打っているので、患者さんの意識は朦朧(もうろう)としていました。さらに患者さんの首の中心部には、ぱっくりと「穴があいている」状態。「終末期の緩和の処置」であることを娘さんへ伝えました。
 しかし手当ての方法がないわけではありません。「孔にブリッジ」で覆う方法もありますが、とてもリスクが高い。そこで、「とにかく、がんの侵攻が早すぎるのでお父さんが助かる見込みは極めて薄い」とも伝えたところ、娘さんは納得されました。
さて意識が朦朧としているお父さんですが、「そうか、一休さんがきてくれたのか。ならば俺、助かるかも知れないな〜」と話された一言に、私は言葉が出ませんでした。ベッドのそばでは、血色の良いかわいいお孫さんが、祖父に微笑みかけていました。
寝たきりの父親、父親を励ます娘、そして二人のやり取りを笑顔でみつめる孫。「この世で一番素晴らしいものは、やはり家族愛・・・」であることを痛感したひと時でした。
10日後、父親は亡くなりました。享年60歳。働き盛りの終焉でした。葬式に出席したところ、大勢の人が参列していて、故人の人柄が偲ばれる一幕でした。



■俳優:菅原謙次先生とのお別れ

私が尊敬していた俳優の菅原謙次先生が亡くなったのは、平成11年暮れのこと。奥さまの芙美江さんから、お電話を頂きました。
「密葬は家族だけ。そのかわりに平成12年3月10日に菅原謙次を偲ぶ会を開くので、案内状を送る」とのことでした。ちょうど私が、入退院を繰り返していた最中の訃報でした。
菅原謙次先生に、劇団新派養成の稽古をつけていただいている頃の私は、「パンチパーマのお兄ちゃん」と呼ばれ、冗談を交わすほど兄弟のような仲だっただけに大ショックでした。
平成5年(50歳)当時の私のブロマイド写真(パンチパーマのお兄ちゃん)です。私は、必死に俳優としての勉強に汗を流していました。私が、菅原謙次先生にいつも指摘されたことは「言葉がなまっている」でした。
具体的には、「“戸弁”=“平詠み”」しなさい」という指導でした。“平詠み”とは、抑揚をつけないで平たく詠むことです。
台本(実技・セリフ)は、主に「樋口一葉」の作品でした。難しかったのは、台本の最初に出てくる「ト書」の情景を浮かべる箇所。昭和初期、春、江戸川べりの土手にて・・「ト書」にあっても情景が浮かびませんでした。
来る日も来るも演技指導が続きました。当時の稽古の時間割ですが、菅原謙次先生からは、さまざまなことを学びました。

稽古時間割 (実技講師は歌舞伎座から) (演技指導は菅原謙次) <特別講師>
坂東玉三郎
小松原庸子
菅原芙美江
他の先生方
19:00〜20:30 20:30〜22:00
月曜日 殺陣(現代劇) 実技・セリフ
火曜日 三味線  実技・セリフ
水曜日 日舞・長唄 実技・セリフ
木曜日 ジャズダンス 実技・セリフ
金曜日 発声練習 実技・セリフ
土曜日 殺陣(時代劇) ジャズダンス

  私が病に倒れ、東京慈恵会医科大学病院外科7E病棟に入院中、何回も奥さまから電話をいただきました。菅原先生ご夫妻から、常に「心配で貴方の夢ばかり見るわ、頑張るのよ」と励ましていただいたことは今も忘れていません。お二人の笑顔は、今もって私の瞼に焼き付いています。

菅原謙次さん
私が尊敬してやまなかった菅原謙次先生のご逝去(急性肺炎のため)が報道されたのは、平成11年12月24日のことでした。菅原謙次先生の本名は小松原重政。享年73歳。フラメンコの女王・小松原庸子さんは実の妹さん。
映画全盛時の大映映画の時代劇スターといえば、長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎、京まち子、中村玉緒さんら、そして現代劇のスターは、菅原謙次先生をはじめ、田宮二郎、宇津井健、山本富士子、若尾文子さんなどがいます。

 菅原謙次先生が亡くなった日、奥さまの芙美恵さんは、「菅原謙次は73年間に及ぶ人生という名の公演に幕を下ろし、新たなる舞台の初日を迎えるため、12月24の日、クリスマス・イヴに旅立ちました」とのコメントをマスコミ各社にファクスで送り公表されました。

1日100本のヘビースモーカーだった菅原謙次先生は、1986年7月、心筋こうそくで倒れた後、健康管理に人一倍気遣ってきました。30年、劇団(新派)で俳優をされた菅原先生は、1998年に勲4等瑞宝章を受章しています。

菅原さんの遺影を手に帰宅した
芙美恵夫人(平成11年12月25日)
■「菅原謙さんを偲ぶ会」のこと

平成12年3月10日(金)午後6時半から、東京・千代田区の東京會舘(皇居前)九階ローズルームで「菅原謙さんを偲ぶ会」が催されました。

俳優の波乃久里子、安井昌二さんら、たくさんの関係者が集まるなか、水谷八重子さんが、声を絞るように涙をこらえながら、次のように挨拶されました。
「サンタクロースが誘惑して連れていってしまったのでしょう。きっと。我らが菅原謙次さんが、突然クリスマス・イヴにいなくなってしまったのです。突然ですよね。呆然としつつミレニアムを迎えたのは新派の私たちばかりではないと存知ます。


あの、賑やか好きの、人間大好き人間の、寂しがりやの、カラオケ好き屋さんが、みんなが会いたがっていない筈がないって決め付けるのは乱暴でございましょうか?
サンタクロースが誘惑して、あのテレ屋さんがチョッピリテレて言い出し損なっているのだと思うんです。菅原謙次さん、謙チャン、謙さん、菅原先生、菅原お父さんの為に、一堂に会して菅原謙次を偲ぶ会でもしないことには、何とも寂しくて、悲しくってたまりません。
アハハ、ボクだって会いたいんだよッて、ご本人もおしゃっておいでと思うのです・・・・」
 私が、菅原謙次さんの遺影の前で花をたむけたとき、水谷八重子さんが私の側にそっと寄ってこられて、耳元で「ありがとう」と深々とお礼の言葉をいただきました。私の体調を、気遣ってくれてのことだったのです。

日比谷シャンテ1階正面
スターの手形広場にある
新珠美千代さんの手形
■新珠美千代さんとの運命の出会い、そして別れ

 平成7年5月、連休のある日、東京慈恵会医科大学病院1F救急室の横のフロアーで、歩行訓練の疲れを取るため休憩していたところ、救急室から車椅子に載ったきれいな女性と6名の看護師たちが出てきました。
何事かと様子を眺めていた私に気づいた看護師たちが、「西宮さん、大丈夫?」と一斉に声をかけてくれました。車椅子の女性が私の顔を凝視し、そのうち何かを思い出したのか、懐かしそうな表情を浮かべて、その美しい女性が私に話しかけてきたのです。
「西宮さんって珍しい名前ね、私も西宮さんって知ってるわ。あなた、もしかして生まれは、柳川では・・?」
「はい」
新珠さんが、東京慈恵会医科大学病院のタクシー乗り場前で急に倒れ、私より1か月前に心臓病で入院していることは報道で知っていました。

「えっ、まさか新珠のお姉さんですか?」
「そうよ、あなた春雄ちゃんじゃない!」
しばし昔話で花が咲きましたが、私の病気の経緯を、看護師さんが彼女に説明し、私が手術跡を見せたところ、あまりにも無残な傷跡に彼女は泣き崩れたのでした。
「まぁ〜頑張ったのね、私も頑張るわ、約束よ・・・」
昭和29年、日活映画「からたちの花」で新珠さんの妹さんが主役。青春時代の北原白秋の物語でした。長期間の柳川ロケが終了した日、新珠さんが妹さんを「もんぺ姿」で迎えにきました。撮影中、新珠姉妹は、私を「可愛い」と手元から離しませんでした。私が小学6年生のときです。
新珠美千代さん。本名は戸田馨子(とだ・きょうこ)さん。私の実家と新珠産の家は隣同士でした。幼い頃、彼女に可愛がってもらっていたことは、彼女より年上の兄から聞き知っていました。東京慈恵会医科大学病院でお会いしたのは、小学6年生に会って以来のことでした。
私が幼少の頃、奈良県へ引っ越した彼女は、姉妹で宝塚歌劇団に入団しスターとなりました。その後、妹さんは日活映画に入社、「からたちの花」1本主演した後、一身上の都合で退社しました。
そして姉の新珠美千代さんは東宝映画へ入社、映画「森繁久弥の社長シリーズ」などで大スターになり、NHKでは「細腕繁盛記」で、さらにお茶の間の人気者になったことはご承知の通りです。
2001年3月17日、新珠美千代さんは「心不全」でお亡くなりになりました(享年71歳)。控えめで気品があり、決して弱音を吐かない芯のある「典型的な柳川美人」でした。生前、ご本人の遺言により家族だけの密葬が営まれ、静かにこの世を去りました。
「私たち、きっと治るわよネネネ・・」と笑顔で励まされたのが、最後の言葉となりました。
 幼少の頃から可愛がっていただいた新珠美千代さんと私の再会いは、つかのまでした。しかし時代はタイムスリップしたかのように、私たちの過ぎし日々は、東京慈恵会医科大学病院で一挙に蘇ったのです。新珠美千代さんは、素晴らしい俳優であるとともに、私の実家の隣に住む美しく優しい年上のお姉さんとして、私の元に戻ってきたのでした。(西宮春雄記)



"平成の一休さん"のE-mail :ikkyuu@sky.biglobe.ne.jp
"平成の一休さん"のホームページ:http://www.ikkyuu.net/



読者からの投稿


「拝啓 ガン友諸君!!」
パート2

「なぜ多くの“ガン友”が逝くのに自分だけ生き延びているのか。
なぜ?何か意味があるのだろうか...」


東京在住 鈴木啓太(55歳)

■「どうせ逝くならスッキリしたい」と一念発起。バンコクへ旅立つ

とはいえ、やはり末期。転移は、確実に来ました。腎臓〜肝臓と、レントゲンに映し出される画面は真っ白け。2000年7月には腎臓が機能しなくなり、全身ブクブク状態になりました。小便も出なくなって、「いよいよか...」と覚悟を決めましたが、「どうせ逝くならスッキリしたい」と一念発起。一足先に逝った師匠格のガン友を見送って、「次は俺だ」という悲壮な思いでバンコクに飛びました。
その昔、出張の際に味わった、あのタイ式マッサージ。アクロバットのようなスゴイやつ。「あれなら気持ちいいかも...」という漠然としたイメージだけです。
何とか泊めてもらった安宿(中華街のなかの一泊250円)は、カーテンのようなベニヤ板だけで隣室と仕切られていて、窓もなく、壁には一面、ヤモリのご一党さん。もちろんエアコンなしで共同トイレ(水洗じゃないので、お尻も手桶で汲んだ水で流しますが慣れると衛生的)、シャワーもなく、水桶にタオルを浸して身体を拭くだけです。外では、一晩中夜犬の群れが吠えていました。 
なぜかって? 蒸し風呂のような部屋の仕切りを通して、左からは妙なロック音楽と麻薬の煙、右の部屋からは、時折、喘ぎ声。そして野犬の吠り声。
「世も末に来たか...」と、ホトホト情けなくなりました。

■タイ式マッサージのメッカ、
ワットポー寺院で生まれ変わった!

ある日、宿のオバサンが教えてくれたのが、タイ式マッサージのメッカ、ワットポー寺院。教えられた通りに行って見ると、「重症者お断り!!」。
「そんなぁ。やっと来たんだから殺されても文句言わねぇから、好きにしてくろい!!」と談判した結果は、「二日後に来い」。
行って見ると、屈強な男3人がニヤニヤして待っていました。



「どうすっか」と思う間もなく、いきなりうつ伏にした私を3人で踏んづけて、声も出ない。その苦しさといったら、「死んだ方がマシ」とは言わないけれども、とにかく半端じゃなかったです、本当。
でも、そんな荒療治を3日。安宿で寝ていたときでした。何かジト〜ッとして自分の体がおかしい。ひょっと目を開けたら、たまげたのなんの。だってシーツが真っ赤っ赤。血の海とは、このことです。お尻から膀胱から...一気に出たんでしょうね。もうワナワナ震えるばかりで、部屋中を泣きながら、ただ訳もなく歩き回わったのでした。
でも何ということでしょう。鏡を見ると、いつも浮腫んでいた自分の顔じゃない。精悍な?元気だった頃のいつもの自分がそこに映っているではありませんか!! ビフォー&アフターそのものです。
夜が明けてワットポーに行ったら、その美しいことったらありません。入口には巨大な涅槃仏が横たわり、広い境内を行けば荘厳な本殿には、黄金に輝くお釈迦さま。周囲を見学する余裕もなかったことを、改めて思い知りました。 
マッサージ場では、誰も昨日までの私とは気付かず、「あんた誰?」でした。それこそ、皆々が感動して泣いて喜んでくれました。日本人は、皆、私を無視されて...というか、私が日本語で話しかけても、日本の皆さんが英語で答えるんです。
ひょっとして、私のことをタイ人かフィリピン人だと思っていたんだろうと思いました。それくらい外人離れ、いや違った日本人離れしてまったのですから・・・。

■奇跡的な現象が生まれるという厳粛な事実を目の当たりに・・・

ワットポーには、マッサージスクールがあって、世界中から大勢の人々がタイ古式マッサージを勉強に来ています。そこでチームを組んでいたアメリカ、メキシコ、ドイツ、オーストラリアの面々が、さっそく私の安宿を清掃してチェックアウトして、彼らが根城にする数段マシな安宿に引越して、翌日から彼らととともにマッサージを勉強することになりました。自分が蘇えった、この不思議な世界は一体何だろうという強い好奇心に突き動かされたからです。
タイ式マッサージについての説明は省きますが、われわれが知る指圧とか整体とか中国気功などが合体した、二千何百年も前から王宮に伝わる伝統的な技だとご理解ください。不思議なのは、このタイ式マッサージは単なるマッサージではなく、施術者と受け手の思いが通じた場合、奇跡的な現象が生まれるという厳粛な事実を目の当たりにしたのです。
いわゆる難病患者が、見事なほど生気を盛り上げる。「ウソだろ!?」という世界が目の前にありました。自分も、そのウソみたいな恩恵に浴したんですから、もう外人相手に必死に学びました。
ちなみに欧米人は、気の世界を理屈で極めようという無理な観念が先走ってしまうようです。指が機械的にプッシュだし、精神世界が入ると瞑想に酔い痴れて、自然体でいられない...。そんな遺伝子の違いも、仲間内での良い話題になったことが、なつかしく思いだされます。
そして、覚えたてのホヤホヤ、湯気を放つ技を玉川温泉に持ち帰ったのです。ドバァ〜ッと出た汚物から解放されて、元気一杯の私は、玉川温泉でマッサージを徹底的にやりました。むろんボランティアで・・・。
すると、「我も我も」と、大勢の方が次から次へと私の元にやってくるようになりました。自分が考えた以上に、いや家族や周囲が見ている前で、今までロクに歩けなかった方がスタスタ歩くのです。本当に驚きました。
こうなったら本格的にタイ式マッサージの奥義を極めてやろうと、再びワットポーに行き、そしてチェンマイの病院で上級コースを取りました。とにかく怒涛の進撃。「ガンなんかに絶対負けない」という、まさに破竹の勢いで・・・。

■しかし私のガンは骨盤に入り込んでいた

でも私のガンは、ついに骨盤に入ってしまっていたのです。2001年5月でした。その痛みは、とても言葉で表現できるものではありません。痛いなんて半端じゃなく、歩けなくなりました。腫瘍マーカーも、正常値(4〜5)が、何と10万を超える青天井です。
「いよいよお迎えが来た」と覚悟を決めました。医師からモルヒネをもらって這うようにして玉川温泉に行きました。夜、人に見られない時間を狙って朝まで岩盤で自分を焼き倒しました。源泉で全身がボロボロになって、岩盤の熱で火傷になり、もう人間の姿じゃありません。歯を食いしばって、あらゆる本を読み漁りました。なかでも、「中村天風」とか「白隠禅師」の本、私を江戸時代にワープさせてくれた、極め付きの名著「夜船閑話」等々。
その年の7月には、やっと杖をついて歩けるようになり、8月には痛みはありますが悠々と周囲の人をマッサージで癒せるまでになったのです。
その頃です。夜一人で岩盤に横になって夜空を見上げると、満天の星が美しく輝いて、いろんな思いが錯綜しました。
「なぜ多くの“ガン友”が逝くのに、自分だけ生き延びているのか。なぜ?何か意味があるのだろうか...」
そんな漠然とした疑問が湧いて、胸のなかがものすごく騒がしい。「これは、社会生活からの逃避か?否、もっと違う意味があるのかも知れないぞ」。あれこれと考えているうちに、ただ時間だけが過ぎて行きました。
そのとき、レントゲンを見ると、私の骨盤は、まるで軽石のようにスカスカでした。(続く)


タイ式マッサージ処・道(タオ)


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タイ古式マッサージ処 道(タオ)
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