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『週刊がん もっといい日』編集部(株式会社日本医療情報出版)
TEL.03-5688-7816
FAX.03-5688-7803


週刊がん もっといい日
2006年Vol.30
10月20日更新


10月13日更新内容 全記事はこちら
体のキュア+心のケアの必要性を改めて知らされた
『がん患者の心の支援 ―日本の現状と課題』テーマの市民公開講座


 がんになったとき、心のサポートはどうすればいいのでしょうかー10月17日、東京で『がん患者の心の支援 ―日本の現状と課題』をテーマに市民公開講座が行われました。18日から20日に開催された第44回日本癌治療学会の市民公開講座として企画されたものです。
国立がんセンターの垣添忠生総長と日米のがん患者さんらが登壇。参加した市民に、がんと宣告された日のこと、日常生活に心の支援が必要なことを強調しました。
がん患者としての体験をもつ垣添忠生総長は、早い段階での発見、治療が不可欠なこと、そしてがん治療がチームで行われていること、50%は治癒すること、緩和医療も終末期ではなく、がんと診断されたときからスタートしており、心のサポートの重要なことを指摘しました。  
がん医療に対する患者側からの発言で、6回のがん手術を乗越えた関原健夫氏(JIS&T株式会社代表取締役社長)は、医療情報の収集に飛び回り、医師との信頼関係を築き、そして克服するという強い信念をもつことが大切なことを力説。
2001年に虫垂癌と診断されたエッセイストの岸本葉子さんは、がんに関する情報が氾濫しているなか、自分自身で情報を整理する必要性を話し、「ベストと思い治療を受けても、思いとおりの経過にならないかもしれない。それが、がん医療であると真正面から受け止め生きてゆくことが基本。その力を促すのが心の支援なのです。私たちの良きパートナーとしての医療従事者であってほしい」と訴えました。
アメリカ対がん協会(ACS)のボランティアとして活動するカロル・セフリンさんは、2年前に乳がんと宣告されたとき、不安と孤独感に襲われ悩みました。怯えた日々が続いていたある日、セフリンさんはACSのURLを開き、さまざまな治療法やサービスに関する情報を入手。7000人のスタッフが常駐し、300万人のボランティアが活動する事実を知りました。
365日に、いつでも相談に答えてくれるコールセンター、遠方から治療を受けに来たがん患者と家族のために建てられ無料で利用できるホープ・ロッジ(希望の家)等々、セフリンさんは、詳細にACSを紹介しました。(次回にセフリンさんのインタビュー記事を掲載)
 がんに侵された患者さんの多くは、治療だけでなく、心のサポートを必要しています。セフリンさんの話は、この日、参加された方たちの心のなかに、深く刻み込まれたことでしょう。
セフリンさんから、私たちは体のキュアと心のケアの大切さんを、改めて知らされました。
 今週もまた、皆さまにとって「もっといい日」でありますように・・・。

『週刊がん もっといい日』編集部 山本武道

☆☆☆「週刊がん もっといい日」VOL.30☆☆☆


連載
『Revital(蘇り)―生死をさまよい生還した
“平成の一休さん”闘病記』


第19回『過去の経験を生かす』

■エアー抜きPEG抜去後、孔こう塞がらず

何回か前に、東京から大阪へ転居するときに、エアー抜きPEG造設のお話をした続きです。パンパンに膨れ上がった胃からのエアー抜きには、専用PEGキット造設で解決したのは、平成14年4月2日。東京慈恵会医科大学病院外科・鈴木裕講師のご尽力で、造設に成功し、そして平成15年12月24日、東京慈恵会医科大学病院外科・鈴木裕講師のもと、PEGキットの抜去に成功しました。
このとき、胃から胃液が漏れないよう5針縫合していただき、平成16年早々、私は大阪の妹宅へ転居しました。東京慈恵会医科大学病院外科からの紹介先は、「住友病院」外科(妙中直之診療主任外科部長・大阪市北区中之島5丁目3−20)。

転居整理も一段落した1月中旬あたりから、エアー抜きPEG抜去後の孔こうから、かすかな漏れが確認されるようなりました。ある日の朝、起床したらシャツが薄く汚れていました。よくよく手鏡で診ると、エアー抜きPEG抜去後糸で縫合していただいた隙間に、2mm程度の孔があいていたのです。
開いた孔こう口を診ると、胃のうす赤い色の粘膜がみえました。縫合された糸は、モノの見事にぶっちぎれていました。威圧に負けてできた見事なピンホールが、そこにはありました。私にとっては、想定内のできごとでしたので、別に驚きはしませんでした。
「やはり来たか〜」
私の率直な感想でした。2日〜3日後、洗濯物をだし、洗いたてのシャツを見たところ、胃からでたミンチがシャツにベットリ付着していました。一瞬、ギョッとしましたが、気を取り直して、じゃ〜楽しみながら一丁やったろか・・」と気合をいれました。
まず、手短に何かないか見回したところ、ティッシュBOXが目に飛び込んできました。
「これだ、これ。これがあればいい」
自宅で、さっそく1枚のティッシュを2cm角に折り曲げてテープで固定しました。2日後、洗濯物のシャツを見たら、また汚れがべっとりとシャツに・・・。
「う〜ん。しぶとい・・」
次週の月曜日、住友病院でお薬をいただく日でしたので、さっそく漏れ具合を診ていただいたところ、妙中先生は、このような経験は初めてのご様子でしたので、私は過去の経験をお話して、「いろいろチャレンジくださいませんか」と打診し、すぐにOKの快諾を得たのです。
液漏れを処置した際に、ティッシュについた汚れを妙中先生にお見せしたところ、「うーん分かりました。では西宮さん、何からはじめましょうか」そう言ってくださったのです。

■平成18年9月中旬、孔こうは見事に塞がった

「先生、液漏れしている3mm程度の孔を糸で縫合してください」
1回目のチャレンジを、時系列に説明すると以下のようになります。

1)消毒する
2)糸を使って五針ほど、ぱっくりと空いたを箇所を縫合する。
3)胃がパンパンにならないよう、厚さ五ミリ・三センチ角の固定盤で孔を塞いだ。
4)フィクソムル ストレッチ テープで胃が膨れないように三箇所固定した。
5)五回試みたが、胃の粘膜がひょっこりと顔をだし、糸は横に広がっていた。
結果は、糸で縫合したものの、再び漏れて失敗でした。2回目のチャレンジを、再度、時系列に説明しましょう。
1)消毒する
2)ホッチスで五針ガチャン・ガチャンと穴を塞ぐ。
3)フィクソルム ストレッチ テープで胃が膨れないように固定版で固定した。
4)五回試みましたが、胃の粘膜が、あざわらうかのように、「にんにんにたにた」と顔をだし、ホッジキス縫合も、“見事失敗”に終わりました。

 3回目のチャレンジです。
まずは消毒してから、今度は40%に薄めた硝酸銀液で焼くことにしました。外科診察室には、40%に薄めた硝酸銀はありませんから、ほかの部署から看護婦さんが借りてくださり、綿棒に硝酸銀液をたっぷりと沁み込ませ、孔こうをチョンチョンと焼いてみました。
「熱い!熱い!」
私が言う前に、妙中先生が気遣ってくれました。
最初は、もろに胃の粘膜を焼いたので、「ジュー」「ちく」と身体から伝わりました。ぱっくりと空いた胃の孔が、見る見るうちに閉口するのが判り、「おっつ・・これは、いけそうだ」と胸をなでおろしました。
翌日、自宅で恐る恐るテープを剥がすと、胃の粘膜だけが焼けその黒い粕が落ちていました。「40%に薄めた硝酸銀液の効果が一番ある」と確信された妙中先生と看護師さんと私は、当面、硝酸銀液で焼く治療を選択し続けたのです。
4回目のチャレンジは、夜、就寝前になると、胃の膨らみは極端に減少することにヒントを得たこと、40%に薄めた硝酸銀液で孔こうを焼くことから、私たちはゴールにたどり着く手がかりを得ました。平成18年6月頃でした。
具体的には、夜10時頃になると、胃内が綺麗に消化され食べ物が残ってない。よく見ると胃がペタンコ。私は、思わず閃きました
「そうだ、夜、胃内は空っぽだから、何もテープで固定する必要はない」
案の定、翌朝、私は手鏡でエアー抜きの抜去後を見たところ、孔が小さくなっていましたが、孔こうはまだ少し漏れていました。
「このまま、ティッシュこよりで固定しても、治癒に時間がかかり過ぎる」
「ならば、湿っているピンポイントの孔を乾燥させればいいのではないか」
周囲を見渡したところ、目と鼻の先にドライヤーが目に入りました。
「これ、これ。ドライヤーを使えば・・・」
孔こう付近の湿り気を、ドライヤーで乾燥後、テープで固定。確か平成18年8月初め頃脱兎もいますガ、孔こう付近から血が滲むようになっていたのです。
「孔こうの塞がりは、もう時間の問題・・・」
私は、そう確信していました。平成18年9月中旬、孔こうはみごとに塞がりました。
これで、2年以上続いた私の格闘に終止符を打つことができたのでした。
今もなお、妙中直之部長の喜ぶ笑顔が、印象に残っています。
大阪に再転居後、上膳下膳、洗濯、買物、雑事をしなくなったことから、自身の体調悪化の兆候を感じましたので、一時、東京でひとり暮らしをはじめ、すべて自分で日常の作業をしたことがリハビリとなったのでしょう。体調はよくなり大阪の妹宅に戻り、現在、森之宮で一人で暮らしています。


■大切な患者の「治したい」、医師の「治したい」・・・

思い起こせば、ドリンク剤を飲んでから始まった私の闘病生活。何度も何度も、奈落のそこに落とされたときの孤独感と挫折感。「もういいや」何度思ったことでしょうか。体験したものでなければ、この苦しみは分かりません。でも、これまで私のために、たくさんの方々が、私の苦しみを自分のことのように感じサポートしていただかなければ、今の私はありません。
患者の「治りたい」、そして医師の「治したい」という強い意思によって、長年の悩みが解消したのです。私は救われました。PEGがなければ、東京慈恵会医科大学病院の羽生助教授と鈴木裕先生に出会わなければ、そして妙中先生・・・私を日夜励ましていただいた多くの看護師さん、私の身内、友人等々。私は、いつも多くの人たちによって勇気付けられ励まされ、「絶対に生きてやる」という強い心を持つことができたのです。
医師によるインフォームドコンセントが不可欠な時代。お医者さまの説明、看護師さんの説明・・・懇切丁寧で、しかも時には友人のごとく、そして私とお医者さまは、闘病生活での戦友でした。お医者さまを信頼し、看護師さんを頼りにし、PEGという装置とのめぐり合い。そういう意味では、私の闘病生活は、とても幸運な日々であったと思います。
私は奈落の底から蘇えったのです。社会復帰もできました。(西宮春雄記)

※長らくおまたせいたしました。一休さんのホームページが再開しました!
平成の一休さんファン倶楽部  http://www.ikkyuu.tv/


※一休さんのメールアドレスが変わりました!
nishimiya@ikkyuu.net → ikkyuu@sky.biglobe.ne.jp
以前のメールアドレスは使えませんので上記のメールアドレスを御使用下さい。





悪性黒色腫、そして乳がんに侵された
柴田典子さん(23歳)からのレポート

「私はもう一人ではない」

その2 『乳がんのこと』

■告知は22歳11か月、手術23歳1か月で・・・

乳がん告知は、22歳11か月のことでした。そして手術は、23歳1か月です。
右乳がんは、乳房内の腫瘍を自分で見つけ、最初は、悪性黒色腫の再発か転移だと思い、定期的に診てもらっている皮膚科を受診。エコーの検査をしてから皮膚科の先生に「乳腺外科の専門の先生に診てもらったほうが安心だと思います」と言われ、乳腺外科を受診しました。
「マンモグラフィーの画像、エコーの画像、年齢から、今、若い人に多い乳腺症でしょう。まず悪性ということは、考えにくい。しかし悪性黒色腫の病歴があり、現在、経過観察になっているから、生検して、はっきりしたほうが精神的には良いんじゃない?良性だろうけど、このままだと不安でしょ?」
乳腺外科の先生から軽く言われ、私も不安だったので生検をしていただきました。初診のときに、先生から軽く言われていたので、「やっぱり良性で、乳腺症でした」って言われ、安心して帰宅することしか考えていませんでした。
しかし診察室に入ったとき、初診時の先生の軽い態度と違うことを感じ、嫌な予感がしました。先生から、「悪性黒色腫の再発、転移ではありませんでした」という言葉に、ホッとした瞬間、「乳がんでした。新規のがんを発病し、二重がんです。どうやら、多重がんの体質のようです」と言われ、頭のなかは真っ白に・・・。
「えっ!?新規のがん?どういうこと?」
私の頭のなかは、それこそパニック。家に帰り、自分の部屋で、一人でワンワン泣きました。

■「嘘でしょ。何かの間違いではないの」

「乳がんは、年配の人が発病するがんで、22歳でなるの? 嘘でしょ。何かの間違いではないの」
私は、そう否認し、受け入れられないまま、一か月後に手術。乳房の半分に、がんは広がり温存不可能。手術中にリンパ転移がわかり、乳房全摘出とリンパ切除手術を受けました。
手術当日まで、「これで、手術回数7回目。手術の回数だけが、どんどん増えていく。いったい何回手術すればいいの?」と増えていく手術回数に目がいったのと、「手術して、がんをすべて取り除けば助かるのなら手術をする」と、生きるためには何をしたらいいのか考え、乳房を失うという現実を実感していませんでした。
 手術後、ガーゼが外れ、傷口を見た私は、号泣。そこから、乳房を失った悲しみが、
想像より遥かに大きく、苦しみました。「がんのなかで、唯一、自分で触れられる乳がんに、なぜもっと早くに気付くことができなかったのだろうか」と自分を責めてしまいます。
手術後すぐに、抗がん剤治療に入りました。悪性黒色腫で抗がん剤治療は経験し
ていますが、私は運が良かったのか絶対に抜けると言われていた髪の毛が抜けませ
んでした。だから、「今回も髪の毛抜けないだろう」と心の中で思っていました。それが脱毛の時期にごっそりと抜けた自分の髪の毛を見て、初めての経験でショックを受けました。
乳房を失った悲しみ、髪の毛が抜け坊主頭になった自分姿、容赦なく襲ってくる
副作用に、私は、精神的に落込んで泣いている日々が続きました。悪性黒色腫と大き
く違うことは、インターネットや病院で、同病者と話す機会があるということ。副作用、傷口のこと、経験者から色々アドバイスをもらい、経験者ではないと語れないことをたくさん聞くことにより、孤独感を抱くことはあまりありませんでした。


■たくさんの方たちの励ましに感謝する日々です

何気なく過ぎていく日々が、どんなに幸せなことか、それができなくなってから、私は、何気ない小さなことに幸せを感じるようになりました。そして、私は「一人ではない」
たくさんの医療関係者、友人、同病者に支えられ、治療をしているこの環境に、感謝の気持ちでいっぱいです。
自宅で、私が、昼・夜関係なく、不安になり恐くなったとき、「私が話を聞くことで少しでも楽になるのならいくらでも話し聞くよ」とおっしゃっていただいたり、仕事ではなく個人的にメールや電話で話を聞いていただき、心配事でいっぱいの私の心を癒していただける、看護師さん、臨床心理士さん、そのほか医療関係者の皆さん、本当にありがとうございます。
病院では、小児科、精神腫瘍科、緩和医療科のお医者さまの力を借りながら、治療に望み、私は、こんなに恵まれた環境で治療を受けられ、どんなに精神面で救われているかわかりません。助けていただいている医療関係者の皆さんに、何度感謝してもしきれないくらいです。
 現在、私は抗がん剤治療中で、目の前の治療をこなしていくことに精一杯で、外出も病院か、たまに友人と会ったり、患者会に参加することぐらいなので、ボディーイメージが変わってしまった自分をしっかりと受け入れられていません。
治療終了後から、普通の生活に戻ったとき、服装などお洒落によって片方の乳房がないことに目が向いたり、(1)悪性黒色腫の再発、転移をいていないか(2)乳がんの再発、転移をしていないか(3)新規にがんを発病していないか。この三つを、検査のたびに見ていかなければならないこと、そして病気や多重がんという体質をしっかり受け入れることによって、私の新たな戦いが始まると思います。
今は治療を頑張り、治療終了後は現実から目をそらしてばかりいないで、自分のペースで病気を受け入れていこうと思っています。

<柴田典子さんからのメッセージ>
仕事・恋愛・遊び・・何気なく過ぎ去っていく日々、そんな日々がどんなに幸せなことか、病気になって知りました。このページで少しでも多くの人が立ち止まって、何かを考えたり、感じてくれたら幸いです。 現在、乳がん闘病生活中です!!

のんたんの部屋

http://heartland.geocities.jp/koko87002000/index.html
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