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『週刊がん もっといい日』編集部(株式会社日本医療情報出版)
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FAX.03-5688-7803




週刊がん もっといい日
2012年Vol.282
1月5日更新


Vol.282の目次 『週刊がん もっといい日』編集部 山本武道からのメッセージ
●治療最前線
中京エリアにおける甲状腺がん治療の拠点として
外来診療でのアブレーション治療を導入――
大須診療所(名古屋市中区) 院長 椿 秀三千医師


●クローズ・アップ
3.11の夜…南相馬にて
福島県南相馬市原町区在住
わかば塾・番場塾・番場ゼミナール塾長 番場 さち子(ばんばさちこ)
(2011年12月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会発行 http://medg.jp)


●クローズ・アップ
福島県南相馬市・大町病院から(2)
南相馬市大町病院 佐藤 敏光
(2011年12月23日 MRIC by 医療ガバナンス学会発行 http://medg.jp)


●セミナー・イベントのお知らせ

11年12月24日更新内容 全記事はこちら

近頃、流行のFace Bookに参加しました

 2012年初の「週刊がん もっといい日」です。今年は辰年。「登り龍のごとく邁進したい」と編集部一同、心新たにして新しい年の船出を致しました。「龍」は中国では運気が良くなると言われていますが、私がかつて所属していた出版社は「青龍社」と言いました。東京都港区青山に事務所を構え、創業者いわく、「君は、青山の龍馬になりたまえ」とのアドバイスを受けて、そのまま社名にしたと聞きました。 
 出版社には10年間、役員として編集者として記者として取材に飛び回る傍ら、全国の大手書店詣での日々が、龍の年としての1月1日を迎えて懐かしく蘇ってきました。
 関西サッカーマガジン、デジタルカメラ専門誌、女性誌、シニア誌等々、幾多の雑誌の発行に関与してきましたが、その間、とてつもないスピードでアナログからデジタルへ移行したことで、パソコンを修得しなければならなくなったのです。
 今でも決して、パソコンの操作は上手ではありませんが、編集部のスタッフに聞きながら、みよう見真似で日々のパソコン業務を続けてきました。そんなある日、Face Bookと言う言葉に出会いましたが、当初は何のことやら・・・。後に、友人や知人、仕事関係の含めて、多くの人たちとの交流を深めるためのサイトであることを知りました。
 思い切って昨年、始めましたが、操作法も分からず、いろいろな方に聞きながら現在に至っています。暮れから1月3日にかけて、Face Bookの呼びかけに答えられるようになり、自分の基本データも入力。すると、あっという間に、友達ができたのです。ハワイやカンボジアで撮影した写真の投稿もしました。
 まだまだ見習い運転の身ですが、今は友達づくりに奔走する毎日です。皆様は、いかがですか。

 さて今週もまた、皆様にとって「もっといい日」でありますように・・・。

『週刊がん もっといい日』編集部 山本武道



☆☆☆「週刊がん もっといい日」VOL.282☆☆☆


治療最前線

中京エリアにおける甲状腺がん治療の拠点として
外来診療でのアブレーション治療を導入――

大須診療所(名古屋市中区) 院長 椿 秀三千医師

 日本有数の甲状腺疾患専門病院として知られる東京・表参道の伊藤病院。そのサテライトとして7年前に開院した名古屋市中区の「大須診療所」が2011年7月、自前の建物を新築して移転した。従来のビル診療所と違い、スペースにゆとりのある診療所では、アイソトープ治療を行う核医学設備を導入。外来における甲状腺疾患治療水準の大幅な向上を実現させた。甲状腺がん摘出手術後のアブレーション治療など、入院を必要としないフォローアップ体制が充実したことで、名古屋を中心とする中京エリアにおける甲状腺疾患の医療提供体制は充実の度合いを増した。院長の椿秀三千医師に、同院の取り組みを取材した。


移転を機に診療内容を拡充――
自前の建物ならではの医療提供


 大須診療所の開院は2004年。名古屋の中心地・大須のビジネスビルのワンフロアを使った、いわゆる「ビル診」としてだった。椿院長らの他、東京の伊藤病院から伊藤公一院長が定期的に診察に訪れるなど、名古屋における甲状腺疾患治療の拠点として、地域の患者に支持される存在となる。


椿 秀三千院長

医療法人社団 甲仁会 大須診療所
名古屋市中区大須4-14-59
http://www.osu-shinryoujyo.jp/
 しかし、入院設備を持たない「診療所」のため、手術などの入院を伴う治療はできない。そこで近隣の甲状腺疾患の外科治療に実績のある病院との連携を密にすることで、軽度から重度までの幅広い甲状腺疾患患者を対象とした診療を続けてきた。
 そんな大須診療所が現在の新診療所に移ったのは昨年7月のこと。地下鉄上前津駅近くに新築した自前の建物への移転を機に、設備面での大幅な拡充を行った。
 「入院設備がないことは以前と同じですが、外来でできる診療範囲が大幅に広がりました。甲状腺がんの肺転移、甲状腺がんの術後に行うアブレーションとよばれる検査や治療も行えるようになりました。これまで連携病院に依頼していた検査・治療の中でも、外来で可能な診療はほぼ網羅することができ、患者さんの利便性を大幅に高めることができました」(椿医師)。
 外来通院は診療所、入院治療は高機能病院――という病診連携による効果的な医療提供体制は必要だが、同じ外来でできることであれば一つの医療機関で済ませたいと思うのは患者の心理だ。必要な検査や治療だけを受けるために別の病院を受診し、いつもと違う医師に診てもらうことは、患者にとって少なからぬストレスになる。今回の移転に伴い、外の病院に患者を送るのは、手術のように入院が必要なケースに限定されることになった。多くが外来治療でカバーできる甲状腺疾患の患者にとって、この変化は朗報だ。

アブレーションからホルモン補充療法まで
甲状腺治療の「かかりつけ医」機能を持つ

 大須診療所の今回の移転で導入した外来でのアブレーションとはどのような治療なのだろう。直訳すると「蒸発」「焼灼」といった意味を持つこの言葉。甲状腺の全摘手術を行った後の残存する甲状腺組織の破壊を目的に行う放射線内照射療法だ。これを行うことで顕微鏡レベルで残存する可能性のあるがん組織を焼灼し、再発の予防を目的とする。
 この治療は放射性物質の取り扱いなど高い施設基準をクリアする必要があることから、国内でも実施医療機関は限られる。放射性ヨード(I-131ヨウ化ナトリウム)カプセルを摂り込む治療のため、患者の体液中に放射性物質が含まれるなどの問題から、従来は入院設備を持つ医療機関で行われてきたが、2010年に医療機関側と患者の住環境の条件がクリアできた場合に限定して、外来での治療が可能になったのだ。
 「対象となるのは遠隔転移の無い分化型甲状腺がんの全摘手術を受けた方です。術後数ケ月をメドに当院を受診していただき、外来アブレーションの適応判定を行います。その結果、外来アブレーションが可能と判断された場合は、1ケ月の準備期間の後、再度受診していただき放射性ヨードカプセルを飲んでもらいます。その後、6ケ月から1年以内に検査量の放射性ヨードカプセルを服用し、摂取したヨウ化ナトリウムが僅かに体外に発するガンマ線を測定するシンチグラムという全身を対象とした画像診断を行い、効果の判定を行います」(椿医師)
 甲状腺を摘出し、さらにアブレーションを行うことで甲状腺機能は、理論上は喪失することになる。そのため、術後に甲状腺ホルモンを補充する必要が出てくるが、これは大須診療所でカバーできる。つまり、術後の実質的なかかりつけ医機能は同診療所が受け持つことになり、アブレーション目的のためにだけ大規模病院で長時間待つ必要もなくなることになるのだ。
 同診療所では同様にバセドウ病に対するアイソトープ治療など、他施設では導入しにくい放射線治療を実施しており、これにより名古屋圏の外来レベルでの甲状腺治療の水準が大幅に向上したことになる。
 「近年、メタボ健診などで頸動脈エコーを撮る機会が増え、そこに甲状腺腫瘍が写り込むことから甲状腺がんが見つかるケースが増えた結果、総じて甲状腺がんの患者が増える方向にある。そんな中で、自前の施設で外来アブレーションができるようになったことは、検査と治療の時間を大幅に短縮し、結果として治療成果を高めることにもつながる。事実、他の病院に依頼すると検査・治療で1ケ月以上かかっていたが、当院では迅速に行えるようになった。がん治療においてこの差は大きい」(椿医師)。
 がん患者が医療機関に求める「専門性」「高機能」「利便性」「迅速性」――の四本柱を備えて本格稼働した同診療所。外来専門のクリニックならではのサービスに期待がかかる。



クローズ・アップ

3.11の夜…南相馬にて
福島県南相馬市原町区在住

わかば塾・番場塾・番場ゼミナール塾長 番場 さち子(ばんばさちこ)

(2011年12月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会発行 http://medg.jp

 3.11の夜、私は自宅近くの南相馬市立総合病院に逃げ込んでいた。午後2:46、私は教室のコピー機の前で、その日に行う単語テストの印刷を始める矢先だった。スリッパのまま、外へ飛び出し、隣に住む大家さんご夫妻と地震がおさまるのを待った。

 長い地震だったが、教室周辺の民家は、さほどの被害も見当たらないので、これがまた来ると噂されていた宮城県沖地震かと、その程度の認識だった。自宅の様子も見てきたら?という大家さんの言葉で我に返り、自宅周辺の様子を見に車を走らせた。後々知ったことだが、あのまま真っすぐ車を走らせていたら、私も津波に巻き込まれていた。たまたま偶然、右に曲がったことで、私は生かされた。

 大学生の元生徒達が、大震災直後「先生、大丈夫か?」とすぐさま駆けつけてくれ、壊滅的だった我が家の片付けを手伝ってくれていたが、夜は一人ぼっちになった。子ども達の気持ちが有難かった分、孤独感が募る。
 余震が頻繁に襲い、家に居るのが怖い。運悪く、母親は松島に旅行中で、父親は実家の伯父家族が行方不明となり、わずかな望みを託して、避難所を捜し回って帰って来ない。消防団の車が「津波警報が出ました!避難してくださーーい!」と巡回して叫んでいる。津波で家もなくなり、防風林もなくなり、遮るものがなくなって、波の音が我が家まで聞こえる。

 市立病院の薬局前のソファーを陣取って、私はテレビの映像に見入っていた。診察室前の長椅子は撤去され、ブルーシートやマットが一面に敷かれていた。津波に遭遇し、泥の中から救助された患者が、次々に運び込まれてくる。
 目を覆いたくなるようなドロドロの患者が運び込まれる毎に、(これは大変なことになった…)と、私の体は恐怖で震えた。テレビに映る映像が、目の前に起こっている。本物を見ているのか、夢を見ているのか…次々に起こる想像を絶するシーンの続出に、私の頭の中は冷静ではいられなくなった。

 行方不明者を捜して、病院を訪ねてくる親戚縁者もあとをたたない。市立病院内はごった返していた。会う人、会う人、お互いに「生きてたーー!?」と肩を抱き合い涙をこぼしていた。

 市立病院で働く看護師の中に、生徒の母親がいた。私の姿を見つけて駆け寄り「子供たちが心配です。」と涙を浮かべた。あの時間で良かった…きっとアヤカとユウトは学校で保護されているだろう…と私は子どもたちの無事を祈った。
 「母親なのに、そばにいてやれない。不安でたまらないと思う…母親失格です。」とこぼされた。いやいや、あなたがこうして気丈に働く姿を、子どもたちは誇りに思うでしょう。私が見届けたことを話してきかせましょう…私はそうつぶやいて、彼女の手際の良い働きぶりに感動さえ覚えて見届けていた。

 お手洗いに行こうと席を立った時、廊下の端にうずくまって泣いている女性の姿が目に入った。あまりにも小さく、消え入りそうな姿に、最初は誰なのかわからなかった。その女性は、私を見つけると、私にしがみついて泣きじゃくった。
 ユウヤとカイトとリュウトの母親だった。嗚咽を漏らしながら切れ切れに話す内容は、おばあちゃんを含めた4人が津波にあい、長男のユウヤの遺体が発見された。原町高校の体育館が遺体安置所となり、そこに運ばれたということだった。

 すべてを失い、「子供たちを追いかけて、私も死にたい…」と慟哭する お母さんを抱きしめながら、私は言葉を失っていた。返す言葉が見つからない。安易な言葉では慰めてあげることなどできない。一度に3人の子どもと母親を失ったと言うのだ。しかし私は涙も出なかった。あまりに唐突過ぎて、実感にならない。ユウヤが死んだ?

 3人はその日、3時半に教室に来る約束になっていたのである。地震のあと、ユウヤは弟二人を学校に迎えに行き、一度自宅に戻ってしまったために津波にあった。そのまま教室に来ていれば、3人とも助かったのに…と考えると、今も悔やまれる。待ち合わせを3時にしておけば…と今でも後悔する。

 3.11は、福島県の中学校の卒業式であった。たくさん通っていた中学三年生たちに「卒業式、絶対見に来てね!」と望まれて、午前中は卒業式に参加していた。私のデジカメは、卒業式の子どもたちの誇らしげな笑顔から、いきなり悲惨な震災で破壊された現場写真へと変わる。卒業式に、おめでとうと握手して別れた子が、2時間後には津波で帰らぬ人となった。

 翌日の3.12から、私の携帯には様々な生徒や保護者からメールや電話が入った。「先生、さようならーー!!!また会いましょう。お元気でね。」「先生も早く逃げてください!!」「東京に行くことになりました。またいつか会いたいです。」
 涙でさよならを言う生徒や保護者たち。私には一体何が起こっているのかさっぱり理解できていなかった。3.13の夜中に「うちはもう帰って来ないつもりで南相馬を出るよ。先生は居ていいのか?」と生徒から電話をもらっても、津波を避けて小学校の避難所にいた私には、なにがそんなに大変なの?と、状況がわかっていなかった。

 近所のご主人が深夜遅くに慌てて訪ねて来た。慌てふためいている。「原発に勤務している友人から聞いた。危険らしい。逃げよう。」「大熊町の住民は、茨城交通のバスが迎えに来て、着の身着のまま避難させられたんだって。」「メルトダウンが起こってるかも…」めるとだうんってなに???
 一度に聞かされても、混乱した私の頭ではすぐに理解できない。

 地元に住む我々は、原発は安全だと言われてきたのである。心配ないと聞かされてきたのである。それが突然、危険だ!逃げろ!と言われても、なにを優先させればいいのかわからない。
 しかもあの原発は、関東へ送るための電気を作っているのである。我々地元民には関係ない。なぜ逃げねばならぬのだ?
 不安におののきながらも、まさか国が、政府が、住民を見捨てることはあるまい。避難命令がでるまで様子を静観しようと覚悟した。

 ところが30キロで線引きされたことで、南相馬には誰も近づこうとしなくなった。壊れたパソコンの修理を頼んでも、社員を30キロ圏内に入れるわけにはいきません、と断られた。 物資も入って来ない。宅配便も郵便も配達されなくなった。そして町は人の気配もなくなってしまった。

 我々海沿いの住民は、津波が恐かったのである。 泥沼化した海や田畑で、腰まで泥にはまると身動きがとれない。泥の中で立ったまま救助を待って、生き延びた人も、その状態で力尽きていた人もいた・・・と消防団の若者から聞かされた。

 どんなにもがいて救出を待ったのか…どれだけ苦痛の中で救助を待ち望んだのか…放置された数日間の例えようのない恐怖…想像するだけで、胸が張り裂けそうな恐れにも似た思いが募る。
 放射能の騒ぎがなかったら、30キロの線引きが違う形で公表され、SPEEDIが速やかに発表されていたら、救助が間に合い助かった命もあったかもしれない。そう思うと心が痛い。この痛みを、この怒りを、どこにぶつけたら良いのかわからぬまま、9ヶ月が過ぎた。




クロ−ズ・アップ

福島県南相馬市・大町病院から(2)

南相馬市大町病院 佐藤 敏光

(2011年12月23日 MRIC by 医療ガバナンス学会発行 http://medg.jp

 入院患者数は59名(満床は57名)となりました。満床以上の人数が入れられるのは、同じ階にある開かれていない病棟の2人部屋のナースコールを繋ぎ直して使えるようにしたからです。しかし、1単位の病床を増やすのは限界があるようで、ナースコールが鳴りっぱなしというような事態も生じています。

 12月から2名の看護師が復職し、看護師数も震災前の約半数の46名となりました。ただ、増えつつある看護師数も1病棟を開くにはまだまだ足らず(急性期病棟を開くには10名以上必要)、外来(の夜勤)に入ってもらうしかありませんでした。
 看護師の帰還もすぐには望めず、急性期病床を諦め、看護基準が緩い療養型(本院には60床と24床の療養型病床があります)を開くか選択に迫られています。

 確かに急性期に入院した患者さんの中には病状が安定しなかったり、家族の受け入れができないため入院が長期化する患者さんが出てきています。そのような患者さんを療養型に移すことにより、急性期病床の余裕も生まれるかも知れません。

 一方では、急性期と慢性期とでは入院基本料が大きく異なる上、急性期以上に手のかかる慢性期の患者の場合、看護師にかかる負担は今以上に大きくなる可能性があります。急性期や看護基準の高い病院に厚くする一方で、長期入院患者を社会的入院と決めつけ、早く退院させるために、慢性期病院の入院基本料を減らし続けてきた日本の医療制度にも原因はあるように思います。

 また厚生労働省は9月6日に医師や看護師数が少なくなった被災地の病院に対し、震災前の看護基準(本院は10:1)で請求して良い(9月6日措置)と言っておきながら、入院患者の増加分は2割までと事実上の入院制限を行っています。

 3月19日と21日に計124名の入院患者を受け入れてくれた群馬県は県内の病院にオーバーベッドを認める超法規的処置をとってくれましたが、福島県にはその動きはありませんでした。3月20日午後に13名の患者がヘリコプターで県立医大に運ばれましたが、入院することなく、外来ホールで1夜を明かした後、群馬県にヘリ搬送されました。(相馬市に住所があった1患者には県立医大から1日分の入院料の請求がきたそうです)

 大町病院は急性期104床と療養型84床を持つケアミックス型の病院で、それなりにバランスを保っていましたが、今回の福島第一原発事故では、福島県内に受け入れ先が見つからずに大勢の入院患者が残る結果になってしまいました。
 早期から重症患者を中通りの病院に搬送させたり、内閣府の役人が病院を訪れて避難指示を出した南相馬市立病院(太田圭祐書;南相馬10日間の救命医療)とは異なり、警戒区域で避難が後回しとなった双葉病院と似た運命を辿るところでした。

 最近大阪にあるテレビ局が災害関連死について番組を作りたいと訪れました。地震や津波のため間もなく亡くなられた方は認定には苦労しないと思います。しかし、搬送された後に肺炎や元々あった疾病のために亡くなった方については、認定が難しくなっています。

 仮定の話として、もし原発が爆発しなければ、南相馬市が物流が途絶えなかったら、Speediのデータをきちんと発表し、3日間位の屋内退避で大丈夫だと保証してくれ、48時間以内のDMATではなく長期滞在してくれる医療スタッフが来てくれていれば、30km圏内の病院の患者は搬送されずに済んだし、現在のような南相馬市の医療事情(MRIC Vol.341地域医療なくなる不安〜南相馬市の現状)にはならなかったように思います。

 その意味では搬送後に亡くなった方は災害関連死ではなく、国策関連死とも言え、国策のために尊い命を落とした戦死者と同じだと思うのです。
 広島の原爆記念公園にある碑文、”安らかにおやすみ下さい、過ちは繰り返しませんから”は原発事故には当てはまらないのでしょうか。

 最後に病魔と闘い、南相馬に残った妊婦のために、国策に抗して自分の財産を除染費用に充てた高橋亨平先生の文章を載せます。You'll be back!
(こちらからダウンロードしてご覧ください)
http://expres.umin.jp//fukushima/iwillbeback.pdf




官邸かわら版

総理の語録:「厳しい寒さに心と体の温もりを」(12/28掲載)

 3月の発災直後、いち早く被災地に届けなければと考えたのは、食料や医薬品とともに、寒さをしのぐ毛布でした。三次補正を早急に執行し、厳しい冬が本格化する被災地の皆さんに、心と体の温もりをお届けしたいと考えております。
(関連リンク)
 野田内閣総理大臣記者会見(平成23年12月1日)
 →http://www.kantei.go.jp/jp/noda/statement/201112/01kaiken.html
 東日本大震災復興対策本部(第10回)―平成23年11月29日(ハイライト)
 →http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg5561.html
発行:内閣官房内閣広報室(〒100-8968 東京都千代田区永田町1-6-1)
「官邸かわら版」への意見は以下へ
https://www.kantei.go.jp/jp/forms/kawaraban_goiken_ssl.html





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