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〜ミャンマーの子どもたちが小さな傷から命をおとすことのないように〜

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『週刊がん もっといい日』編集部(株式会社日本医療情報出版)
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週刊がん もっといい日
2012年Vol.293
3月29日更新


Vol.292の目次 『週刊がん もっといい日』編集部 山本武道からのメッセージ
●クローズ・アップ
『3月11日から、今までを振り返って』
福島県立原町高校卒業 玉川大学農学部生命化学科進学予定
上原 孝太
(2012年3月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会発行 http://medg.jp)


●セミナー・イベントのお知らせ

12年3月15日更新内容 全記事はこちら

調剤薬局チェーンのトモニティが3月31日、埼玉に
ハーブティ試飲会などイベントスペース設けた新店舗オープン

 このところ繁華街立地に新しい薬局やドラッグストアが相次いで登場しています。「週刊がん もっといい日」編集部(東京都文京区湯島)近くにも、三河安城市内に「がんに特化した調剤専門薬局」を開設するスギ薬局の新店舗がオープンし、たくさんのお客さんが来店していますが、埼玉県さいたま市内には健康を通じたコミュニチづくりを提案する新しい調剤薬局が3月31日(土)にお目見えします。
 100店舗の調剤薬局を運営するトモニティが、さいたま新都心「けやきひろば」に開設するものです。「人が幸せと感じられる生活は心身の安定から始まります」とのスローガンを掲げ、医療機関から発行された処方箋の調剤はもとより、食や美容分野からアロマ・アート教室などを行うカフェスペースを設け、健康に関するさまざまな悩みを、「科学と自然」「心と体」両面からサポートし、心豊かな生活を提案する調剤薬局です。
 オーガニックコスメ(オーストラリアンオーガニクス、ドクターハウシュカ、ロゴナ、ネイチャーズウェイ、ヴェレダなど)、自然化粧品(産地・素材がわかる安心製品をラインナップ)、アロマオイル、アロマテラピーに関するグッズ類、一般市販薬など1500種の商品を導入。イベントスペースでは随時、ハーブティーの試飲や食育教室も行う予定です。
 「さいたま新都心はオフィス・住居ともに多く、多くの人々が集まる地であり、開発された歴史も新しいところから新ライフスタイルが浸透しやすく、健康法への考え方も柔軟な町。来店されたお客さまに満足していただけるスタッフ教育も行い、地元に愛される場づくりをしたい」(トモニティの木下弘貴代表取締役)
 店舗名は「トモニティ薬局 スーパーアリーナ店」。スペースは165u。詳細な概要は専用のURL(http://www.tomonity.com/keyaki)で。明日(3月30日)には、一般オープンに先立ちマスコミ対象の内覧会があります。一足先に見て、本欄で紹介いたしますが、お近くの方は3月31日にスーパーアリーナへ。10時から開店とのことです。

 さて今週もまた、皆様にとって「もっといい日」でありますように・・・。

『週刊がん もっといい日』編集部 山本武道






☆☆☆「週刊がん もっといい日」VOL.293☆☆☆


クローズ・アップ

『3月11日から、今までを振り返って』

福島県立原町高校卒業 玉川大学農学部生命化学科進学予定
上原 孝太

(2012年3月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会発行 http://medg.jp

 3月11日午後2時46分、私は放課後の部活のことを考えながら授業を受けていた。その時、突然強い縦揺れが起きた。鳴り響く携帯の緊急地震速報の中、揺れは沈静化するどころかどんどん強くなっていった。立つこともできず、ただ机にしがみつき揺れがおさまるのを待った。
揺れが少しおさまり、私たちは校庭に避難した。まだ冷たい風が吹き付けるなか、早く家に帰りたいなぁ、などと思いながら校庭で何分くらい経ってからだろうか、教頭先生の津波が沿岸を襲ったというアナウンスを聞いた。
まだ情報が錯綜している頃で、津波の高さは、3mとか20mを超えたとかいろいろな情報が流れていたが想像できずにいた。家に帰ったら作りかけのプラモデルを直そうとか、テレビが倒れているのではないかなどと考えていた程度だった。帰宅出来る者は帰っていい、というアナウンスが再び流れたので自転車で帰ることにし、自宅へと向かった。

 途中、瓦が落ちていたり、ガラスが割れているのを見ても被害はそれほど甚大だとは思っていなかった。しかし家に近づくにつれ、少し異変を感じた。みんな車を路上に停めたまま海のほうを見ている。
なんだろう、と思いながら自転車を走らせていると、父のトラックを見つけた。父のトラックのほかにも車が数台停まっている。父に近づくと、予想もしなった言葉を聞いた。「家が流された!ばぁちゃんも流されたかもしれない!」…?父の言う意味が全然理解できなかった。ばぁちゃんが流された?家がない?
 とにかく現実として受け入れられなかった。父のトラックに乗り込み、ラジオを聴いたが、目の前の状況が現実として受け止められずにいた。俺には家がない…ばぁちゃんも死んだ…?そんなわけがない。新しいパソコンも購入したばかりで、教科書や参考書だって部屋にある。子供の頃からの写真や大事な物も取り出せないのか?家がないとはどういうことだ…?

 とりあえず父と、まずはドラックストアへ行き食糧とも言えない様な食糧を買い込んだ。それから隣町の母の実家に行った。車の中でまだおさまらない揺れを感じていた。夜になって母が合流したが、母は避難所を回り祖父と祖母を探していたらしい。
何軒も避難所を巡って、ようやく祖父と祖母を見つけたらしい。祖母はどうやら家の前で放心状態でいるところを祖父が車で助けに行き、津波に後を突かれながら命からがら生き延びたということだった。
 ばぁちゃんが生きている…よかった…本当によかった…心からそう思った。家族はみんな生きていた。それが唯一の救いだった。その日から私たち親子3人は母方の実家でお世話になることになった。
テレビをつけると改めて今回の地震の規模がわかった。夜、気仙沼・塩釜の火事が映し出されて真っ赤に燃えて昼のように明るかったのが不気味だった。地獄だと思った。

テレビのテロップで死亡者が出ていて、ふと目につく名前があった。近所の中学生の双子の名前がそこにあった。3月11日、双子が自転車で登校するのを見た。そしてその双子の兄弟はその日卒業式だったはずだ…そんな理不尽なことがあっていいのか?
 そんなことを考えている中、急に胸をさすような感じがした。死亡者リストの中で同級生の名前があったのだ。その子の家は私の家から500mしか離れていないところにあった。死んだ…?ウソだろ?なんでこんなに簡単に人が死んでいくんだ。そこでもまた現実から逃げ出したい衝動に駆られた。

 そしてもう一つ忘れられないことが起きた。福島第一原発事故が発生したのだ。セシウム、放射能、シーベルト、制御棒、聞きなれない言葉がテレビに映った。

 二日経ち、津波が引いたというので家を見に行った。まだそこに家があるんじゃないかと思いながら。父のトラックと出会った場所から徒歩で家にまで行ってみることにしたが、坂道から家のほうを見ると絶句した。海が見える…何もない。
 そこはまさに戦後の焼け野原とでも言うべき程何もなかった。あるのは見渡す限りの瓦礫だけだった。涙が出てきた。まだ手には家の感触が残っていた。まだ頭の中には震災前の風景がしっかりと焼きつけられていた。まだ暮らしの感触がここかしこに残っていた。途方にくれながら行き場もなく、母方の家に向かう途中、父から慌てふためいた電話がきた。
「3号機が爆発した、外にいるなら、早く家の中に逃げろ!」

 どんどん状況が悪くなっていく原発をニュースで見て不安は増していった。これからどうなるのだろう。その時別の高校に通う友達からメールが来た。同級生の安否がわからない、という内容だった。
私はあわててその安否のわからないという同級生にメールを送った。しかしいくら待っても返事は来ない。不安になり電話をかけてみることにした。電話を何回もかけてみた。メールを何回も何回も送ってもみた。
しかし、まったく返事がこなかった。その同級生は3月29日に彼の家から1kmほど先で遺体でみつかったそうだ。彼は私が幼稚園に入園して初めて声をかけてくれた友人だった。小学校の間も仲が良く、高校生になってからも別の道には進んだが、たまに連絡しあう仲だった。

 次の日、原発事故の状況がどんどん酷くなっていくので、母方の家族が岩手の親戚に避難しよう、ということになった。当時はガソリンがないので一台でしか動けない。そこで私と小学生の子供二人と幼稚園の子供二人とその親たち、計9人で岩手に避難することにした。
親と離れ、私は一人遠くへ避難することになった。親たちは仙台の親戚のところへと避難した。祖父・祖母も茨城に避難し、家族はバラバラになった。

 岩手の人たちは本当にやさしく接してくれた。友達からも励ましのメールをいっぱいもらった。だが私の心は癒されなかった。一週間くらい経ち、私は親が待つ仙台へと向かった。その後私以外の8人は自分の家へと帰って行った。
そこから約二週間は仙台で過ごした。受験生となる私に、大人たちは仙台の高校に転学することを勧めてくれ、仙台に残る選択も考えてみた。しかし私は母校で卒業したいと考え、そうして4月に母方の家にまた戻ってきて世話になった。
アパートを探していたが、ほとんどのアパートが埋まっており、残っていたのは1Kのアパートだけだった。やむを得ずその1Kのアパートで親子三人でまた暮らしを始めることになったが、全てを失った我々は、一から生活用品、衣類、食器、家財道具をそろえなければならなかった。

 原町高校もゴールデンウィーク明けの5月9日から隣の相馬市の高校の教室をかりて授業が再開できるようになった。再開するまで私はもともと通っていた塾を開けてもらい勉強をすることができた。受験生でもあり、不安定な環境の中で、落ち着かない日々を過ごしていた私には、通いなれた塾の空間だけが唯一の心の拠り所であった。
私一人のために教室を再開してくれた先生に甘えていられることが救いであった。そうして母校が再開し、同時に仮設住宅の申し込みも始まった。仮設住宅の部屋が決まり親子三人は新たに住居をもった。仮設住宅はいろいろな場所に作られており、野球場だった所や町中から少し離れた空き地に急きょ建てられていた。
津波で家を失った人や、原発事故により自宅が20kmの警戒区域になり、自分の家に住めなくなった人たちも仮設住宅に住んでいる。そのため様々な地域や職種の人がおり喧嘩が絶えない。毎日救急車が呼ばれたり、ペット同伴の仮設住宅では、元々の近所の住民が獣の悪臭を訴え、そこの仮設住宅に住むのを嫌がる人もいる。

  私の住む仮設住宅は、老人が多く、まわりの仮設住宅と比べれば住みよいところではある。しかし町中から少し離れており、足腰の弱い老人などは買い物に行けず、家の中で一日を過ごす人も少なくない。仮設住宅の中は二部屋にキッチンがあり、ドアではなくカーテンで仕切られている。
一部屋は4畳ほどしかなく、大の大人が三人とテーブルがあればもうギュウギュウ詰めである。また二棟つづきであるため、隣の家との壁はあるが、その壁が薄いのか、物音も聞こえてくる。隙間があいていて、そこからの隙間風が入り込んで特に寒いこの冬は寒さがつらい。仮設住宅での生活は本当に満足のいくものではない。
他にも、ちょっとしたもの、電卓とかホッチキスとか、以前は、家にあったものを全て失ったことも不自由で、とても寂しいような気持ちにもなる。

 震災から一年が経過した。私が住んでいた地域の人々もいろいろな場所に引っ越してしまい、どこに住んでいるのかもよくわかっていない。気持ちの整理だって全然ついていない。
  小学生の頃から通っていた塾の先生の勧めで、なるべく受験料がかからない方法ということで、大学は指定校推薦で受験することにした。動物が好きで、小さい頃は獣医師になることを夢見ていたが、この放射能漏れ事故で、放射能やセシウムなどの化学物質に興味を持ち、生命化学科のある大学へ進学する。私の進路が決まり喜んでくれた祖父は、津波からせっかく難を逃れて助かったにも関わらず、突然の心筋梗塞でこの世を去った。

 今の南相馬市は、高校生などは半数くらいは戻りつつあるが、小学生、幼稚園児など年齢が小さくになるにつれて人数は少なくなっている。子供がいなければ、町は、市は成り立たない。子供の笑顔がなければ、その地域は明るくならない。
まずは南相馬市としての機能をしっかりと回復させていかなければならないと思う。例えば病院や商店や教育が元のように潤滑でなければ子供たちも戻ってこないだろう。しかし南相馬市の現状は隣の市や県に比べて全然といっていいほど復興していないように見える。
まだまだ南相馬市の復興には時間がかかると思う。しかし他の市よりも時間をかけているからこそ、より良い町になっていくと私は信じ、自分のふるさとの復興を心から願ってやまない。





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